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隅田川七福神Seven Gods of Good Fortune


多門寺(毘沙門天) 墨田区墨田5-31-13

多門寺(毘沙門天)

多聞寺は天徳年間(957〜960)に創建され、不動明王像を御本尊としていた。当時は隅田千軒宿と呼ばれた古代奥州街道の宿駅(現在の隅田川神社辺り)にあり、大鏡山明王院隅田寺と号していたと伝えられる。
古くよりこの寺は、隅田川神社、別称水神社の別当寺も兼ねていた。天正年間(1573〜1592)に現在の地に移り、夢告により弘法大師作といわれる毘沙門天像を勧請し祀り、隅田山吉祥院多聞寺と改称したとされる。
享和三年(1803)の火災により山門を残し諸堂宇を焼失したが、後に再建された。御本尊、不動尊、地蔵尊は難を逃れ、御堂に現在も安置されている。また、境内にある映画人の墓は、参拝者の多くが立ち寄る所として知られている。

毘沙門天

御本尊「毘沙門天」は木造立像で、世界の中心に立つ須弥山(しゅみせん)の四方門を守護する四天王(持国天、増長天、広目天、毘沙門天)の随一で、多聞天とも呼ばれ、北方の守護にあたり、仏法に帰依する人々を守護する。インド出身の神様。勇壮の神として古来より武人からの信仰が厚く、上杉謙信は、「毘」の字を旗印にしていたことも有名である。多聞寺の「隅田川七福神碑」は、幕府の海軍奉行だった榎本武揚の書である。諧謔と風流を愛し、生っ粋の江戸っ子であった武揚は晩年向島に隠居し、墨提の散策を殊の外好んだという。なお、七福神めぐりは通常、南から始めることが多いので、毘沙門天を祀ってある多聞寺は、最後の順番となっています。

山門

諸堂宇が中興再建された慶安2年(1649)に建立されたが、享保2年(1718)に燃失してしまった。現在の茅葺き屋根の山門は18世紀中葉に再建されたもので、享和三年(1803)の大火では奇跡的に難を逃れた。多聞寺の中で最も歴史のある建造物である。関東大震災や太平洋戦争の戦火も逃れ、時代を超えて今もなお悠々とした姿を見せている。

六地蔵

庫裡の前には、「坐姿六態地蔵」と呼ばれる都内でも非常に珍しい形の尊像がある。この六地蔵尊は、仏教における地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道のどこにいても救いの手を差し伸べてくれる地蔵尊である。

狸塚

茅葺の山門をくぐって左側に「狸塚」と刻んだ碑がある。その由来は次のようなものである。『昔、寺の回りは樹木や雑草がうっそうと生い茂る狐や狸の住処で、悪戯をして村人や参詣者を困らせていた。時の住職鑁海和尚は、人々の難儀を救おうと、草木を伐採した折に老松の根元に洞穴を発見し、諸悪の根源だと睨み、伐り倒した。すると、その夜から天地鳴動の怪異が続き、和尚は一心に御本尊の毘沙門天に祈り続けた。
ある晩、姿を現した妖怪が、「この土地から出て行け」と和尚を脅すと、毘沙門天に仕える童子が天から舞い下り、宝棒を振って妖怪を打ち伏した。翌朝、庭に出てみると、夫婦の大狸が死んでいた。哀れに思った和尚は、松の木の根本に二匹を葬る塚を築いて、霊を慰めた。』俗に狸寺と呼ばれるようになった今日では、その名に縁のある狸の像が笹の陰から愛嬌のある顔を覗かせている。また、人々を苦しめてきた古狸の霊はその前非を悔いて、これらの像とともに近隣の人々や参詣に訪れる人達の守護にあたっているという。


白鬚神社  墨田区東向島3-5-2

白鬚神社

由来と歴史

白鬚神社は、天暦五年(951)に慈恵大師が関東に下った時に近江国滋賀郡打颪(滋賀県高島町)に鎮座する白鬚大明神の御分霊を勧請し、ここに祀ったのが起源とされる。祭神は、猿田彦命で国土の神、道案内の守神とされ、また隅田川沿いの道祖神の役割も果たすとともに古くから寺島村の鎮守として厚く信仰されている。明治四十三年の大洪水の際には、当時、神主だった今井直は氏子とともに井戸に堤防を築き清水を確保し、人々の飲み水として役立てたという。この井戸は、今も神楽殿の脇に佇んでいる。平成二年、心ない暴徒の放火により江戸時代末期に建てられた社殿は全焼し、多くの名木も失われたが、平成四年に社殿が再建され、現在に至っている。

白鬚大神

中国出身の神様で、道教の思想から出ており、「寿星」を人格化した神様。一説には、福禄寿の別名とも言われている。寿老人は手に杖を持ち、その杖には、人の寿命の長さを記した巻物が結びつけられている。鹿を連れているが、この鹿は深山神のお遣いで、三千年の長寿の象徴であるといわれる。人々の安全と健康を守る長寿の神様として信仰されている所以でもある。隅田川七福神では、「寿老人」を「寿老神」と記している。これは、隅田川七福神の選出に際し、寿老人を祀ってあるところだけが見つからなかったので、百花園のある寺島の鎮守、白鬚大明神に白羽の矢が立ち、その御名前からして白い鬚の老人の神様だろうからと寿老人に充てたことから来ている。石碑には、「白鬚大神」と刻まれている。

狛犬と燈籠

社殿前の狛犬は、吉原の有名料亭から奉納された物。御祭神の猿田彦大神が、天孫降臨の時、道案内を務めたということから、江戸時代からはお客様を案内して下さる神様として崇められ、「千客万来」「商売繁盛」にも御利益のある神社とされている。石灯籠は旧寺島村出身の田中抱二と中山湖aによって奉納された。

「鷲津」毅堂の碑

境内には多くの石碑があり、社殿のすぐ左手には加藤千蔭筆の白鬚神社縁起碑、参道脇にまとめられた碑には、墨多三絶の碑などがある。また、幕末の幕臣で、外国奉行だった岩瀬おうしょ鴎所の供養碑もある。日米通商条約等で活躍したが、将軍の跡継ぎ問題のため安政の大獄で退けられ、向島で晩年を過した。他に、永井荷風の母方の祖父で、明治の顕官といわれた鷲津毅堂の碑などもある。社殿で授与される勾玉型をした災難除けの土鈴は、いかにもひなびた民芸品の香り高いもので、人気がある。また、江戸時代に近郊農業として生産された寺島ナスにちなむ「招福茄子」の根付けも頒布されている。

ぼんでん祭

毎年五月五日に行なわれて来た「ぼんでん祭り」は、昔、この一帯が農村であった頃の習慣を伝える江戸時代からの神事で、竹につけた色とりどりの御幣を舟に乗せて隅田川に漕ぎ出し、五穀豊穣と川の氾濫防止を祈願した。御幣は祈願後に氏子へお守りとして配られていた。現在は、五年に一度の「本ぼんでん」のみが行われる。


向島百花園  墨田区東向島3-18-3

向島百花園

由来と歴史

隅田川七福神の発祥の地、百花園は文化元年(1804)に仙台の人、佐原鞠塢が開いた。鞠塢は日本橋で骨董屋として財を成したが、晩年、この地に隠退し、多賀屋敷跡を買い求め、かねてから親しくしていた文化人の太田南畝〈蜀山人〉、亀田鵬斉、谷文晁、大窪詩仏、加藤千蔭らから寄贈された梅樹三百六十株を植え、梅園とした。このために亀戸の梅屋敷に対して、新梅屋敷と呼ばれた。梅は百花にさきがけて咲くと、当代の人気絵師、酒井抱一が百花園と命名したと伝える。その後も名花名草が集められ、自然のままの趣をもち風流の極致をゆく庭園は江戸市民の絶好の行楽地となった。ちょうど江戸町人文化が最も栄えた文化・文政期(1804〜30)にあたり、人々は花と親しみながら茶を喫し、隅田川焼き(楽焼きの一種)を楽しんだ。この評判を聞き、時の十一代将軍家斉もこの庭園を訪れている。その後、洪水による被害などの変遷があって、昭和十三年に東京市に寄付されたが、太平洋戦争の際、大空襲のためすっかり損壊、昭和二十四年に東京都の手により、現在のように復興された。いま東京に残る名園といわれる公園は、ほとんどが大名邸の跡だが、百花園は向島の隅田川情緒を結実した町人文化の粋であるところに持色がある。昭和五十三年には、国の名勝史跡に指定された。蜀山人の手で「花屋敷」と書かれた風流の門をくぐると、四季の植物をあしらった庭のあちこちに亀田鵬斉の「墨沱梅荘記」の碑文をはじめ、数多くの歌碑や句碑を見ることができる。今も、春の七草籠の頒布、夏八月の虫ききの会、秋の月見の会など、風流な催しが行われている。

福禄寿

長頭短身の老人の姿で知られる神様で、出身地は中国。福寿を司るとされる南極星の精と考えられていた。風俗記という古書には、次のような話が載っている。『中国の宋の時代、都に背が低く、頭が長く、ひげを伸ばした老人がいて、占いをしていたそうだ。稼いだ金で酒を飲んでは、「我こそは寿を与える聖人なり」と言っているのが宮中でも噂になり、ついに皇帝がこの老人を召し出した。「今何歳か?」と帝が問うと、「私は南方から来た者で、酒に酔っていないと、うまく話せない」との返事。それではと酒を与えると、「私は黄河が澄むのを度々見たことがある」と話し出した。中国の大河、黄河は常に濁っており、一千年に一度だけ澄むと伝えられている。「これは大変な長寿の人だ」と帝が思った時、にわかにその老人は消えてしまったという。』百花園に奉られている陶製の福禄寿像は、骨董商であった頃の初代 佐原鞠塢の遺愛の品と伝えられている。風俗記に短身、長頭の容姿とされているが、この像は身の丈50aのうち40aが頭という極端なお姿をしている。


長命寺  墨田区向島5-31-13

長命寺

由来と歴史

開山は明らかではないが、元和元年(1615)頃の創建とも伝えられている。天台宗で比叡山延暦寺の末寺で、当初は常泉寺と号していた。
寛永年間(1624〜44)に、三代将軍家光が鷹狩の途中、不意の腹痛のためこの寺に休憩した際、境内の井戸水を汲み、薬を服用したところ、たちどころに痛みが消え快癒した。喜んだ家光がその井戸に長命水の名を与えたところから、以後、寺号を長命寺と改めたという。今も残る長命水石文や洗心養神の石碑が、それを物語っている。この井戸は、その後の自然災害もあって枯れてしまっていたが、平成十八年十二月に水道水を引いて"復元"された。
江戸時代の本堂は安政二年の大地震により全焼し、その後、武家屋敷を移築して再建された明治時代の本堂も大正十二年の関東大震災により焼失したが、阿弥陀如来像は難を逃れ、現在の本堂に安置されている。
境内には、他にも様々な石碑が立ち並んでいる。江戸時代には雪見の名所であったところから、芭蕉の雪見の句碑や、十返舎一九の辞世の狂歌碑、太田蜀山人の狂歌碑等がある。また、江戸時代の有名な国学者、橘守部の墓、幕府の外国奉行・会計副総裁を務め、明治になってから「朝野新聞」の社長に迎えられ、時事風刺の文を書いた成島柳北の上半身を浮き彫りにした碑などもある。
門前の桜餅は有名で、現在『山本や』が二百数十年の味を伝えている。

弁財天

七福神のうち、紅一点の弁財天は、水辺に多く祭られている神様で、長命寺の弁財天は長命水に因んだものと考えられており、琵琶湖竹生島の弁財天の分身である。
そもそもインドの神様で、もとは河(水)の神様だった。日本に伝来してから、弁舌や音楽を司る芸能の神として信仰された。琵琶を奏でている御姿で描かれることの多いのは、そのためである。
言葉の神ということから文字・学問・智恵の神となり、やがて智恵や学問は福財をもたらしてくれるということから、貧乏から人々を救い、財宝を与えてくれる神としての信仰ができた。それに伴って、元は「弁才天」と記されていたのが、いつの間にか「才」が「財」の字に置き換えられて、福の神の仲間入りをした。水の神様ということから、へびがお遣いとして選ばれ、巳の日に参拝するという風習が生まれた。


弘福寺  墨田区向島5-3-2

弘福寺

由来と歴史

黄檗宗大本山、黄檗山万福寺(京都府宇治市)の末寺にあたり、祥雲作といわれる釈迦如来像をご本尊とする。以前は、隅田善左エ門村の高森山にあった小庵だったが、延宝二年(1673)に鉄牛禅師により現在の地に移されるとともに、牛頭山弘福寺と改称された。山号を牛頭としたのは、当時、隣接していた牛嶋神社の祭神、須佐之男命の別称が牛頭天王で古くから地主神として祀られていたことに由来する。同じ禅宗の中でも最も中国に近い宗派として名高い弘福寺は、本堂の重層な屋根、大棟の宝珠や山門などの随所に特有の唐風建築様式がみられ、威厳に満ちた構えをしている。境内には池田冠山の墓があり、少年期を向島で過ごした森鴎外の墓も関東大震災まであった。冠山は江戸末期鳥取西館藩主で、学識に豊み、退主後は、著述を楽しみ、晩年は冠山動人と号し、佐伯候毛利高標、 任正寺候小橋長昭と並び文学三候と称され、天保四年(1833)に没した。

布袋尊

七福神の中で唯一実在した中国唐時代の禅僧で名を契此、号を長汀子といった。弘福寺が布袋尊を祀ってあるのは、黄檗宗が禅宗の中でも最も中国に近い宗派であることによるものと考えられている。小躯、大腹で杖に布袋を荷って物を貰えば袋に貯え、困る人にはそれを施し、その中身は尽きることがなかったといわれる。無邪気で欲がなく、おおらかな性格とあわせて子供達から人気があり、幸せを願う世の人の共感を誘い、七福神の仲間入りをしたものと思われる。この世の幸福とは、金銭欲や物欲を満足させることだけではない、ということを教えてくれる神様といえる。

咳の爺婆尊

山門を入って右側の小堂に佇む爺と婆の像。当山開基稲葉家奉納。この像は、寛文年間、風外和尚が求道の旅の折、真鶴の岩洞穴で父母を慕うあまり刻み出したと伝えられる。作者風外の「風の外」の文字から風邪にも強かろうと爺像には、喉頭の病に、婆像は咳止めに御利益があるとして信仰されている。

羅漢彫根付

「桃の種」で羅漢様を彫り上げてある。桃は古来より魔よけに効き目ありとされる。

招福根付

「寿」と「卍」をあしらった中国産の陶器製の玉で、念珠の時に使われる。

絵馬

日本画家 尾瀬戸春光氏による干支招福絵馬。


三囲神社  墨田区向島2-5-17

三囲神社

由来と歴史

三井家の江戸の氏神として知られているが、昔、三囲神社は、三囲稲荷と呼ばれる墨東の古社だった。文和年間(1352〜1356)、近江国三井寺の僧源慶が霊夢により東国を巡礼していた途中、ここ牛嶋の地に荒れ果てた小祠を見つけた。村人に尋ねると弘法大師が創建した由緒ある祠であるとのこと。その様を深く悲しんだ源慶は自ら社殿の修復に取りかかると、埋もれていた壺が一つ出て来た。その壺に収められていたのは白狐に跨った神像だった。その時、何処からともなく現れた白狐が神像の周りを三度回ってまた何処かへか消えていったという。この故事から「みめぐり」の名が付いたと伝えられている。三囲神社が現在の墨堤下に移ったのは、慶長年間(1596〜1615)に発生した隅田川の大洪水後に将軍家康が東岸の嵩上げ工事を命じて以降のことと伝わっている。境内には数多くの石碑が立っているが、その中でも最も有名なのは、俳人室井其角の雨乞いの句碑だろう。「此御神に雨乞する人にかわりて "遊ふ田地(夕立)や田を見めぐりの神ならば" 晋其角」と刻まれている。元禄六年(1693)は春から非常な旱ばつで、六月二十八日、其角は門人の蔵前の礼差白雲とともに参詣に立ち寄ると境内では、鉦や太鼓を鳴らしての連日連夜続く雨乞い祈祷の最中であった。そこで其角は、能因法師の故事に倣い「ゆたか」の三字を俳句に「夕立や田を見めぐりの神ならば」と詠み短冊に記して奉納したところ、翌日から雨が続き、農民の苦難は救われたと伝えられている。宮大工・清水嘉助奉納の精巧な内社殿は見物である。

恵比寿神・大国神

恵比寿神は鯛を抱え、釣竿を持っている姿から豊漁の神として、大国神は頭巾をかぶり、米俵に乗り、小槌を持った姿から台所を司る神として信仰されてきた。大国神は神話に登場するおおくに大国ぬしのみこと主命と考えられますが、大黒天ともいわれます。大黒天は元々仏法の守護神として崇められていたインドの神ですが、仏教が中国を経て日本に伝わる過程で台所を司る神としての性格が加えられたようです。そして大国と大黒との読み方が同じであることや御神徳が似ているところから、慈悲深く富貴を授ける神として混合され、信仰されるようになったといわれている。室町時代頃から商業が盛んになってくると、ともに市場の神となり、さらには商売繁昌の神としても信仰を集めるようになった。俗に恵比寿・大国というように、一対の神として商家などに祭られ、それにまつわる信仰習俗も盛んである。三囲神社の南の鳥居より入って左手の社に鎮座する恵比寿・大国の二神は、もと越後屋(現在の三越)に祀られていた御本尊と伝えられている。

囲碁の奇才、中山善吉の碑

八歳で囲碁を覚え、天才の名をほしいままにした中山善吉の碑。十四歳の若さで亡くなった後、その才能を称え、特別昇段を与えられた。明冶二十七年の建碑。

老翁老嫗の石像

元禄の頃、三囲神社の境内には老夫婦が住んでおり、参詣者の頼みにより老婆が田圃に向かって狐を呼ぶと、どこからともなく狐が現れ願い事を叶えてくれたという。其角もこのことを「早稲酒や狐呼び出す姥がもと」と詠んでおり老婆の没後、信仰者がその徳を慕い石像を建てたと伝えられる。


草餅

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向じま 志”満ん草餅

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